ラフマニノフのレッスン&ピアニスト「アレクセイ・スルタノフ」

日曜日のラフマニノフ

新年初めての生徒さん達のレッスンです。今日はラフマニノフの名曲が続きました。

レッスン後、生徒さんが大好きなピアニストの話題になりました。

大学生の頃から憧れていたピアニストの曲、ラフマニノフ・ソナタ2番を「いつか弾きたい」と、心の中であたためて思い続けてきた年月、20年近くだそうです。

芸術はなんと、奥深いものなのでしょう!今、念願のラフマニノフピアノソナタ2番に取り組んでいらっしゃいます。彼女の憧れのピアニストは、アレクセイ・スルタノフ。

YouTubeで、ラフマニノフソナタ2番を聴いてみました。ものすごいエネルギッシュな演奏です。

2001年に硬膜下血腫にて入院し、左半身麻痺になってからは、リハビリをしながら右手だけで演奏活動を続けていらっしゃったそうですが、2005年、35歳の若さで亡くなられました。

短い人生を物語るような、燃え尽きるような演奏ですね…。

 

アレクセイ・スルタノフについて

1969年8月7日、チェリストの父(Faizul Sultanov)、ヴァイオリニストの母(Natalia Pogorelova)より、ウズベキスタンの首都タシケントにて生まれる。

6歳よりタシケントの音楽院にて、タマーラ・ポポヴィチ女史に師事。7歳でモーツアルトのピアノ協奏曲(K.382)を演奏しデビュー。
1986年より、よりよい教育を求めてタシケントからモスクワに移動。モスクワ中央音楽学校、モスクワ音楽院でレフ・ナウモフに師事。1986年第8回チャイコフスキーコンクールに参加するも、二次予選後、右手小指の怪我のため辞退。

1989年、最年少の19歳で第8回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに優勝。コンクール優勝をきっかけに、Johny CarsonのTonight Show(NBC)に出演(1989年6月21日/1990年4月25日)、またホロヴィッツのアパートにも招かれる。

その後、ワルシャワでポーランド初のリサイタルを行い(1989年9月9日、ワルシャワ国立フィルハーモニーホール)、1990年5月3日、ニューヨークのカーネギーホールでリサイタルを行う。

1991年9月にはクライバーンコンクールの開催地である、テキサス州ファートワースに移住。

1995年第13回ショパン国際ピアノコンクールに出場し、最高位を受賞。スルタノフはコンクール史に残る多くの名演を残し、コンクールは常にスルタノフを中心に回った。

コンクール後は日本やポーランドを中心に世界中でコンサートを行い、常に聴衆を熱狂させていた。

1998年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場し、聴衆からの熱い支持を受け、特別賞を受賞した。

1991年2月に初来日。その後、1996年3月、1997年3月、1999年3月と、合計4回の来日を果たしている。

来日時の演奏の多くは、ライブ録音がCDで発売されたり、映像がNHKで放映されたり、と、記録を語る上で重要な位置づけとなっている。その後、2001年にも来日の予定があったが、適わなかった。

プライベートでは、1986年4月20日にモスクワ音楽院大ホールで開催されたホロヴィッツのコンサートで、当時モスクワ音楽院でチェロの学生をしており後の妻となるDace Abeleと運命的な出会いをする。

1991年10月31日、二人はタラント郡裁判所(Tarrant County Courthouse)で結婚式をあげた。 2001年、硬膜下血腫にて入院、左半身麻痺になる。

スルタノフ夫人との二人三脚で、厳しいリハビリメニューを行いながら、2004年右手のピアニストとして、ボランティア活動を開始する。病院施設などで電子キーボードを使ったミニコンサートを繰り返した。

大きな病を抱えながらも、スルタノフが懸命に右手でメロディーを奏でる姿は、重症患者たちに”ネヴァー・ギブ・アップ”のメッセージを与え、大きく勇気付けた。

2004年11月9日アメリカ合衆国国籍を取得。記念式典では、妻Daceとの連弾で右手を使って “America the beautiful” を演奏した。2005年6月30日 フォートワースの自宅にて逝去。

日本アレクセイ・スルタノフ支援会HPより引用

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この記事を書いた人

坂上麻紀

坂上麻紀

現在は東灘区にてピアノ教室を主宰の他、ラウンジピアニスト、各種イベント、シニアマンション・病院等での出張演奏にて活動中。神戸女学院大学音楽学部音楽学科ピアノ専攻卒・同音楽専攻科修了。